出井さんとの思い出vol.1:出井さんと出会うまでの前日譚

コラム

出井さんの訃報に接して

2022年6月7日(火)、スマートニュースのプッシュ通知で元SONYのCEOでクオンタムリープを経営されていた出井伸之さんが死去されたことを知りました。わずかな期間ではありますが、出井さんのオフィスに出入りしていた時期がありまして、大変良くしていただきました。もう10年以上前の話になるのですが、自分だけの思い出として記憶の片隅にしまっておくには少しもったいないと思い、哀悼の意を込めて、当時26歳の等身大の自分から見た出井さんとの思い出を語ってみたいと思います。

出井さんとの接点を作ってくれた辻野さん

出井さんと初めてお会いしたのは2010年の6,7月頃だったと思いますが、まず最初に出井さんと出会うきっかけをくださった辻野さんのお話から始めたいと思います。

辻野さんと初めてお会いしたのはGoogle日本法人の入社式のことでした。入社初日に、当時代表を務めておられた村上憲郎さんをはじめとする経営陣から、新卒入社組に対してそれぞれメッセージをいただいたのですが、営業職もエンジニアもまとめての入社式だったので、当時ソフトウェアエンジニア部門に所属されていた辻野さんからもお話をいただく機会がありました。

辻野さんは「Googleはそのうち自前で通信衛星を打ち上げてしまうんではないか」とお話になられ、心の中で「いち民間企業がそんなことをしてしまうのか。でもGoogleのビジネスモデルとキャッシュフローならやりかねないぞ。とんでもない会社に入ったぞ。」と思い、とてもワクワクした記憶があります。当時はAndroid、ストリートビュー、Chromeが出る前の話で、Googleがこの先どう進化していくか誰も予想がつきませんでした。

今にして思えば、日本企業の中で唯一Appleと互角に渡り合える可能性があったのがSONYであり、その急先鋒として戦っていたのが辻野さんだったわけです。まったくの偶然ですが、2005年にNYに行った時に、地下鉄にいる人がみんな白いイヤホンのiPodで音楽を聴いていることに衝撃を受けたのですが、その時にSONYがiPod対抗として出していたのがこの香水瓶をモチーフにしたウォークマンのAシリーズで、辻野さんはこれもご担当されておられました。実は、NYにいた頃にこれを買おうとしてBestBuyに買いに行ったのですが、全然店頭に置いてなくてやむなく購入を諦めた経緯があります。

ウォークマンAシリーズ

入社式のその日に初めて、辻野さんがVAIOの立ち上げをされていたことも知り、「自分のインターネットとの出会いを作った人達が目の前にいる!」と思って興奮しました。とはいえ、エンジニア側の方なので、広告営業に配属された私とは接点がなく、その後は全社向けのイベントなどでお見かけする程度でした。

そんな辻野さんとの接点が急激に近くなるのは、2009年のQ3からです。体調不良の村上憲郎さんに代わってGoogle日本法人の社長に辻野さんが就任されました。その結果、広告営業組織も統括することとなり、席も広告営業チームに置いていたので接点が増えていきました。

全員の声を聞こうとするスタイル

ハードウェアなどを中心にキャリアを築いてきた辻野さんにとって、広告営業、それも運用型広告の営業というのは馴染みが薄いものだったかもしれません。それでも、社長に就任されてすぐに「全社員とミーティングをする」ということで、社会人2年目の私も含めて本当に全員と30分時間とってミーティングをされておられました。今にして思えば、これも出井さんの「越境」スタイルの影響なのかもしれません。たかだか300名程度の規模にしても、なかなか社長レベルの方々と直接お話する機会はなかったので、とても嬉しかった記憶があります。

それから、たぶんTGIF(社内交流イベント)か何かだったと思うのですが、当時Google AdWords(現Google広告)は色々な実験をしていた頃で、AdWordsから直接ケーブルテレビの広告枠の買付けや、新聞への広告出稿などができるように米国でテストを進めていました。そうした時期だったので、Q&Aコーナーで「日本ではテレビ広告の買い付けや、新聞広告はやらないんですか?」とつい無邪気に辻野さんに質問してしまいました。日本の広告業界の慣習などもまったく知らなかったからできたことです(苦笑)。

すると「日本でやらないなんてことはない。チームを作ってやってみよう。誰か他にやりたい人はいるか?」などと全体に話を振っていただき、けして少なくない人が手をあげたのを見て、自分のような意見でも掬い上げてくれる方なんだなと思ってとても感動しました。結局そのプロジェクトが動くことはなかったのですが、新米の私には印象的な出来事でした。今でも記憶に残っているくらいですからね。

辻野さんに、おもむろにメールをするという暴挙に出る

2010年、グローバルでの体制変更など、色々なことが重なって辻野さんがGoogleの日本法人を退任されることになりました。Google日本法人は、辻野さん以降社長職を置かない体制となり現在まで続いています。

辻野さんが辞められるということを知ったのが2010年の4、5月頃だったと思うのですが、今だったら時間がありそうということで、思い切って辻野さんにメールをしてみることにしました。前述のような、新米の意見も聞いてくれるという印象があったからです。

当時、2010年当時はTOYOTAのリコール問題がグローバルで話題になっており、私は謝罪広告の調査のために、グローバルでのTOYOTA関連の検索ワードの検索数などを調査していました。今でこそ、海外への広告出稿など当たり前ですが、当時はなかなか一般的ではなかったのですが、海外の検索結果を色々と見ていると、日本関連の検索ワードの検索結果が手つかずで、マネタイズがまったく行われていないという事実に気が付き、大きなビジネスチャンスだと思いました。

辻野さんがGoogleを退任されて何をされるかわからなかったのですが、こういう事実があるのでぜひ辻野さんの力で日本をマネタイズしてください、という趣旨のようなことをメールしたと思います。すると、すぐに返信をくださり、一度会って話そうと言ってくださいました。確か、その指定された日はお台場で行われたAPACのSales Conferenceの2日目の午前の出来事で、Conferenceを抜け出して閉館間際の品川の「ホテルパシフィック東京」(2010年9月閉館)のラウンジに向かいました。

一緒にやらないか – 出井さんのことを初めて知る

ラウンジで辻野さんとお会いするのはとても緊張しましたが、同時にGoogleの日本法人社長を務めた方を独り占めできる嬉しさもありました。開口一番に、私が送ったメールに感動したということを伝えていただきました。そして、次のチャレンジとして様々な選択肢の中で、起業を検討されていること、そして出井さんのクオンタムリープという会社の枠組みを利用してチャレンジすること、などを伝えていただきました。恥ずかしながら、私はそこで初めて出井さんのことを具体的に認識することとなったわけです。

ホテル・パシフィック東京

そして、光栄にも、もしよければ一緒にその会社で働かないか、と誘っていただきました。Googleという素晴らしい会社に勤めてまだ2年半、正直その場では即答できませんでしたが、とても嬉しく思い心は傾きかけていました。その後、新しいオフィスの候補地を一緒に見に行こうということになり、六本木ミッドタウンに隣接するパークサイドシックスに到着し、出井さんの秘書を勤めておられた北川 竜也さんが鍵を持ってこられ、パークサイドシックスの内観を見学しました。

次に会うときに返答を聞かせてくれ、ということでその日は解散し、そそくさと何事もなかったかのようにお台場のSales Conferennceに戻りました。

今振り返ってみると

この頃の思い出は、苦い経験ばかりなので、あまり振り返ってこなかったのですが、今振り返ってみると若気の至りで、実力も実績もない無責任なことばかり言っていて、自分の実力不足に穴があったら入りたいと恥じ入るばかりです。でも、年齢を重ねてくると、多かれ少なかれ25、6の若者なんてそんなものだし、やっぱり意思表示してくれる勢いのある子を見ると嬉しいものだよなぁと思ってきたりもします。

そして、まだまだGAFAの存在が確立する前の話で、GAFAに真正面から対抗しようとしていたのがSONYの方々だったのかなと思います。実は、Googleの日本法人はGoogleの海外支社としては最初の支社で、初来日の頃から秋葉原の携帯電話を見ていたということで、その頃から虎視眈々と狙われていたのかな、とも思います。

いずれにせよ、自分の人生にとってとてつもなく大きな変化があって、そのきっかけに出井さんと辻野さんがいらっしゃいました。とにかく度量が広くてカッコよく見えました。やがて、一緒に仕事をする中で色々と見えてくることはあるのですが、自分の人生にとってこの時の経験は伏線であり、いずれ回収しにいかなくてはいけないだろうな、と時々ふと思ったりします。

杓谷 匠杓谷 匠

1984年生まれ。2008年に新卒でGoogleに入社して以来、一貫して運用型広告の世界に従事。2010年にスタートアップに参画するも、川原で膝を抱える日々を経験。その後、Tripadvisor、Google、ATARAを経て、2019年に英国に籍を置く世界最大級のGMPパートナーJellyfishの日本法人の立ち上げに参画。

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